ゴシケーヴィチ生誕200年
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ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ
Iosif Antonovich GOSHKEVICH
(1814 - 1875)
ゴシケーヴィチ胸像
(オストロヴェツ市,1994年ヤヌシケーヴィチ作)
ヨシフ・ゴシケーヴィチ- 外交官,東洋研究者。
ヨシフ・ゴシケーヴィチはミンスク県レチツァ郡ヤキモヴォ・スロボダ(当時帝政ロシア,現ベラルーシ共和国ゴメリ州)に生まれた。ミンスク神学校を卒業後,1839年にペテルブルク神学アカデミーを卒業。ロシア正教伝道団の一員として十年にわたり北京に滞在中,東洋研究に携わる。伝道団にはP.I.カファロフ,V.P.ワシリエフ,I.I.ザハロフ,A.A.タタリノフといった,後に著名な東洋学者となったメンバーが含まれていた。またこの伝道団にはベラルーシ出身の画家,K.I.コルサーリンもおり,東洋をモチーフにした多数のスケッチを残している。ゴシケーヴィチは中国で中国語,満州語,韓国語,モンゴル語といった東洋の言語を習得した。また,中国の自然や中国人の生活習慣を積極的に研究し,風景の写真撮影も行っている。ゴシケーヴィチが中国で行った天文学・気象学上の観察は,学問的に大きな価値をもつものであった。ロシア人の自然科学者として,中国,日本,インドシナ,フィリピン,朝鮮の動植物を多数採集した最初のロシア人自然科学者の一人でもある。
1852年から1855年にはプチャーチン提督の外交使節団に通訳として加わり,フリゲート艦パルラダ号で日本を訪れた。日露間最初の条約の準備に携わり,1855年の調印にも立ち会った。
ゴシケーヴィチは,初代駐日ロシア領事となることを提案された。外国人としては初めて,日本の首都の外に出ることを許可された。
日本滞在中(1858 ~ 1865年),ゴシケーヴィチは外交だけでなく,研究活動にも従事した。日露条約準備作業中に得た豊富な語学経験を活かし,日本人の橘甲斎と共同で1857年に『和魯通言比考』(和露辞典)を完成させた。和露辞典は帝国科学アカデミーからの栄誉あるデミードフ賞受賞対象となり,金メダルも授与された。
ゴシケーヴィチの辞典は,ロシアにおける日本語に関わるあらゆる成果物の中で最も優れたものとみなされていた。自然観察を行い,気象観測を記録し,動植物の標本を採集した。ゴシケーヴィチによる日本と日本語に関する観察や研究論文は,ペテルブルクの帝国科学アカデミーや中央物理観測所の刊行物に掲載された。ゴシケーヴィチは欧州と東洋の計13ヶ国語を習得していたほか,中国と日本の司法行政・政治システムや極東諸民族の風俗習慣にも通じていた。
1867年に退官し,ヴィリノ県にあるマリの領地に移り住んだ(現ベラルーシ共和国グロドノ州オストロヴェツ地区)。この地でゴシケーヴィチは,研究書『日本語の起源について』を執筆した。ゴシケーヴィチの極東研究が当時として如何に多方面に及び,専門的であったかは,彼の蔵書目録に含まれる日本語・満州語・中国語の図書の数が420冊にも上ることが示している。ゴシケーヴィチが集めた資料には,東アジア諸国に関する地理学,民俗学,歴史,言語といった分野の内容が含まれている。
ヴィリノ(現リトアニア共和国の首都ヴィリニュス)において死去,埋葬される。函館市とオストロヴェツ(ベラルーシ)には,記念碑が設置されている。
出所:『文化的対話におけるベラルーシの250人』2008年ミンスク・エコペルスペクチヴァ社刊(250 асоб з Беларусі у дыялогах культур. Мінск, УП "Экоперспектіва" 2008)
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関連記事など外部リンク(ロシア語、日本語)
- ゴシケーヴィチ生誕200周年を2014/2015年UNESCO事業に登録(BELTA通信、2013年11月22日)
- ゴシケーヴィチ生誕200周年(ベラルーシ国立歴史文書館)
- 初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチゆかりの地ベラルーシを訪問して(函館日ロ交流史研究会会報、倉田有佳・ロシア極東連邦総合大学函館校教授)
- ゴシケーヴィチ生誕200周年 (新聞「アストラヴェツの真実」2014年3月31日)
- 日本を拓いた人物(新聞「SB. 今日のベラルーシ」2014年5月3日)
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マリ村図書館内に設けられたゴシケーヴィチコーナー(オストロヴェツ地区)
旧ロシア領事館(函館市,1908年再建)
函館ハリストス正教会(函館市,1907年以前)
函館ハリストス正教会(函館市,1916年再建)